飛鳥  その2
 天武と持統、両天皇の御陵

 「鬼の雪隠」から東へ300mの所に見える小高い丘が、第40代天武天皇と第41代持統天皇、夫妻の御陵で、檜隈大内陵(ひのくまおおうちノみささぎ)です。687年(持統元年)築造し、翌年天武天皇を葬り、703年(大宝3年)天皇として初めて火葬をされた持統天皇を合葬し、天武天皇は、父が第34代舒明天皇、母が第35代皇極(重祚し第37代斉明)天皇、名を大海(おおあま)と云い、額田王との間に十市皇女(とおちノひめみこ)がいましたけど、後に額田王は兄第38代天智天皇(中大兄皇子)の妃で、そして、皇后の鸕野讃良皇女(うのノさららノひめみこ、持統天皇)は、兄の第二皇女で姪(めい)です。
 明日香村の亀石(かめいし)

 「天武・持統天皇陵」の南側に緩やかな階段が在るけど、そこを降りずに右へ廻って元の道へ出て、東へ少し行くと、道の脇に花崗岩(かこうがん)で造られた長さ3.6m、幅2m、高さ2m、重さ40トンの「亀石」が南西を向いて寝ていますが、これは大昔、まだ飛鳥が湖の底だった頃、明日香村川原(かわら)の鯰と対岸の當麻の蛇が喧嘩して、川原の鯰が負けました。その結果、湖の水を蛇に取られて干上がって、仰山の亀が死に、その供養の為の物で、この「亀石」が西の葛城市當麻町の方を向くと洪水が起こり、明日香村が泥沼に成ると云われています。しかし、本当の所は何の為に造られたのか、今もって謎の石像です。
 上宮太子「定林寺(じょうりんじ)」

 「亀石」から南へ約400mほど行くと、明日香村立部(たちべ)の集落で、その西に浄土宗「定林寺」があります。創建に関しては、明らかでありませんが聖徳太子が建立した寺院の1つで、元は「立部寺」とも呼ばれ、現在ある小さな本堂と庫裏は、江戸時代の後半に建立されています。また、「定林寺」の裏側が「春日(かすが)神社」で、当社も元は現在地よりも西へ約50m行った所に鎮座していましたが、そこが国指定史跡「定林寺跡」として買い上げられたため、現在地に遷宮(せんぐう)し、境内が綺麗に整備され小さな長屋門のような拝殿の後ろに、こじんまりした春日造りの本殿が、そう派手でなく鎮座しています。
 国史跡「定林寺跡」

 「春日神社」から更に西へ行った奧の台地に国史跡「定林寺跡」があります。日本初の女帝で、第33代推古天皇の摂政だった聖徳太子が、600年頃(推古天皇8年頃)建立された46ケ寺の1つと伝えられ、聖徳太子の仏法弘布の霊地です。なお、近年行われた発掘調査によって、瓦と共に塔跡や回廊の跡、土壇、礎石などが検出し、塔の跡から円形柱座を彫り込んだ塔心礎が発見され、また、付近から塑像(そぞう)で造られた菩薩像の首の断片等が出土しました。なお、出土した瓦片によって、飛鳥時代に創建された寺院の跡と推定され、昭和41年国史跡に指定されました。でも、今は10段ばかりの石段がある土壇だけです。

 国史跡「川原寺跡(弘福寺)」

 「定林寺」から北へ約600m行くと、バス通りに面して「川原寺跡」が在ります。飛鳥寺大官大寺と共に飛鳥三大寺の1つで、創建に関しては諸説があるが、673年(天武天皇2年)3月書生を集めて我が国初の一切経写経が行われ、平成17年2月その写経を納めた「経蔵」の跡らしき礎石が見つかり、また、703年(大宝3年)1月5日持統天皇の時に弘福寺(ぐぶくじ、TEL 0744-54-2043)で、832年(天長9年)11月12日嵯峨上皇が空海に当寺を賜与し、本尊は「十一面観音像」で、重文の持国天、多聞天像等を安置され、1191年(建久2年)殆どを焼失して衰退し、山門の脇に川原寺の塔の跡が残っています。



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