飛鳥  その6
 蘇我入鹿の「首塚」

 「飛鳥寺跡」から西へ出ると田圃の中に花崗岩製の五輪塔が、上から4個目の水輪を逆さにして建っています。645年(皇極4年)6月12日に中大兄皇子(後の第38代天智天皇)と中臣鎌足に板蓋宮で殺された蘇我入鹿(そがノいるか)の「首塚」です。入鹿は、「石舞台古墳」に埋葬された蘇我馬子の孫で、父が蝦夷(えみし)、父の妹、即ち叔母が聖徳太子の妃です。なお、入鹿と聖徳太子の曾祖父は、共に蘇我稲目ですが、642年(皇極元年)聖徳太子が亡くなって、翌年11月、馬子の娘が生んだ古人大兄皇子を即位させる為、太子の息子・山背大兄王を殺しました。また、後ろの丘は入鹿の館が在った「甘橿丘」です。
 飛鳥坐神社(TEL 0744-54-2071)

 「飛鳥寺」から東側のバス通りを北へ行って、突き当たり、右(東)へ曲がってまた突き当たった所に、「飛鳥坐神社」の鳥居が見えます。石段を上がると、立派な社殿が建ち、「飛鳥坐神社」が鎮座する鳥形山(とりがたやま)は飛鳥の「神奈備山」と言われて、ご祭神は事代主(ことしろぬし)命、高皇産霊(たかみむすび)命、飛鳥三日比売(あすかみかひめ)命と、大物主命(大国主命の和魂)の4柱です。「延喜式」の出雲国造神賀詞(いずもノくにノみやっこかんよごと)によると、賀夜奈流美(かやなるみ、甘奈備飛鳥三日比売)命を飛鳥の神奈備に祀って皇室の守護神としたと言われ、「日本書紀」にも載っています。
 「飛鳥坐神社」の拝殿

 また、「飛鳥坐神社」の主神、事代主命は、別名を八重事代主、事代大山咋神、叉は俗に恵美須大神とも云われ、大国主命の第一子です。皇祖の天照大御神が皇国の基を定める時、父の大国主命が我が子の事代主命を数多くの神々の先頭に立たせ、皇祖に仕えたならば、国造りに逆らう神はないであろうと、皇室の守護神として、当社にお祀りなられました。なお、境内に本社・中之社を始め、式内社に比定された飛鳥山口坐神社や八幡神社など48の末社、それに拝殿、神楽殿などがあり、また、数多くの陰陽石が祀られていますが、毎年2月の第1日曜日に行われる「御田(おんだ)祭」は、夫婦和合のちょっとエッチなお祭りです。
 「飛鳥坐神社」のエッチな「御田祭」

 「飛鳥坐神社」の「おん田祭」は、当日の昼頃から天狗と翁の面をつけた村の若い衆が、村内を廻って、「厄払い」と云いながらササラを振り回して暴れ、後15:00〜、拝殿下の神楽殿で、1番太鼓により、天狗が牛の面を被った若い衆の尻を叩いて、田鋤(たす)き、田均(たなら)しの所作を演じ、2番太鼓で神主が苗代に種籾をまく格好をし、3番太鼓でお多福と天狗が写真のように夫婦和合の所作をしますが、カモンと云ってお多福が寝ころぶと、いっすいの余地もなく大勢詰めかけた観衆からどっと爆笑が湧きます。この神事は、五穀豊穣・子孫繁栄を祈る奇祭で、使用された福の紙を家庭に持ち帰ると子宝に恵まれます。
 鎌足の母「大伴(おおとも)夫人之墓」

 「飛鳥坐神社」の石段下、鳥居の斜め前にある井戸は、「飛鳥井」と呼ばれ、「催馬楽(さいばら、中古の初め、すくなくとも859年の貞観元年以前に譜が選定され、宮廷、貴族の宴遊や寺院の法会で歌われていた歌)」に出てくる井戸ですが、その横を通って、東へ400m行くと、藤原鎌足の母、大伴夫人の墓があります。墓は、東西約11m、南北約12m、高さ約2.4mの円墳です。「飛鳥坐神社」の東、ここら辺りは明日香村小原で、元は大原、藤原とも称され、その昔645年蘇我入鹿を殺し、大化改新を断行した中大兄皇子(後の第38代天智天皇)の智臣であった中臣鎌足連、すなわち、後の藤原鎌足の誕生地です。
 大織冠誕生之旧跡「大原神社」

 「大伴夫人の墓」から更に東へ少し行くと、万葉集巻2−103で詠まれた大原に「大原神社」があり、石灯籠の脇に「大織冠誕生之旧跡」と彫られた石柱が建っていますけど、大織冠(だいしょっかん)とは、上代、第36代孝徳天皇の時に定められた冠位の最高位で、後の正一位に相当するが、実際には、669年(天智天皇8年)に藤原鎌足が授けられただけです。よって、「大織冠」とは藤原鎌足の事を指し、ここが鎌足の誕生地と云うことで、石柱の後ろに粗末な木の表示板が建ち「藤原鎌足公、産湯の井戸」と書かれています。「大原神社」の脇を通って、裏の森の中へと下りて行ったら、それらしき石垣の井戸があります。
 史跡「飛鳥水落(みずおち)遺跡」

 「飛鳥寺」から北へ行って、バス通りに出たら少し西へ進んで、右(北)へ曲がる手前で細道へ入って行くと、「水落遺跡」が在ります。660年5月(斉明天皇6年)中大兄皇子が日本初の「漏刻(ろうこく、水時計)」を造り、第40代天智天皇に即位して後、671年4月25日(新暦6月10日)設置されて、精密に、堅固に築いた建物と、建物内中央に黒漆塗り木製水槽を使った漏刻装置が昭和56年に発掘され、「日本書紀」に書かれた「漏刻」の跡と判りました。当時ここで、時間を管理し、天文、暦、呪いも担当した役所が塀で囲まれた一郭に在り、1階に漏刻装置、2階に都へ時刻を知らせる鐘や太鼓が置かれました。
 奥山久米寺(おくやまくめでら)跡

 「水落遺跡」から北へ行き、大きな道へ出たら右へ折れて東へ向い、次の十字路を左へ折れて北へ向うと「明日香村奥山」の集落の中に浄土宗「奥山久米寺」があります。創建や縁起については不明ですが、本尊は「阿弥陀如来立像」で、本堂の前庭に塔跡が残っており、その心礎の上に鎌倉時代の「十三重石塔」が建っていますが、奈良国立文化財研究所の発掘調査により7世紀前半(飛鳥時代)の瓦が出土し、心礎・礎石の位置は後世に動かされているけど、伽藍配置は塔・金堂が一列に並ぶ四天王寺式の大寺院の跡と推定され、大官大寺の前身で「高市大寺」や、「百済寺」の跡、また、久米寺の「奥ノ院」とする説もあります。
 国史蹟「大官大寺塔阯地」

 「奥山久米寺跡」から北西に出て、南北の「飛鳥周遊歩道」を北へ向うと「大官大寺塔阯地」です。元は聖徳太子熊疑(くまごり)村に建てた精舎で、639年(舒明11年)百済川の傍に移り「百済大寺」、更に673年(天武2年)高市郡夜部に移って「高市大寺」、天武6年「大官大寺」に改称し、平城遷都で「大安寺」になったけど、残された建物は、711年(和銅4年)藤原京の大火で焼失し、昭和48年からの発掘調査で、中門、金堂、講堂が南北に並び、中門と金堂をつなぐ回廊内の東に九重塔を配する伽藍配置が明かになり、回廊で囲まれた範囲は東西144m、南北195m、後の東大寺の創立当初と同規模です。

甘橿丘から東方を見る

 「大官大寺塔阯地」からまた南へ戻り、「飛鳥川」を渡ると、甘橿丘(あまかしノおか、標高148m)です。丘へ登る途中に、犬養先生が書かれた志貴皇子(天智天皇の第七皇子)の万葉歌碑が建っています。

 采女(うねめ)の袖ふきかへす明日香風
 都を遠み いたずらに吹く   巻1−51

更に登ると、万葉展望台(標高148m)で、北方に大和三山、東方直ぐ下に写真の飛鳥寺と、向に多武峰を望み、また、丘を下る時に、万葉植物園路(つばきの小道)を通ると、四季折々に花が咲いています。
 向原寺(推古天皇豊浦宮跡・豊浦寺跡)

 「甘樫丘」の北側にある登り口の所のトイレの横を通って西へちょっと行って北へ曲がると、浄土真宗、太子山「向原寺(こうげんじ、県史跡・豊浦寺跡)」があります。552年(欽明天皇13年)蘇我稲目が百済の聖明王から贈られた金銅の釈迦佛を賜り、小墾田(おはりだ)の家に安置し、次に向原(むくはら)の家を寺にしたのが始りで、後に物部尾輿によって焼かれ、593年推古天皇がここ豊浦で即位、603年小墾田宮へ移る迄の宮で、その跡地を蘇我馬子が譲り受け、尼寺の「豊浦寺」を創建、634年(舒明天皇6年)塔婆を建立し、大官飛鳥川原坂田と共に飛鳥五大寺の1つで、江戸時代に「向原寺」に継承。
 日本初の仏像を投げ込んだ「難波池

 「飛鳥川」の西岸で、バス停「豊浦」の南側にある「向原寺」の一角、直ぐ南に小さな「難波(なんば)池」があります。池の中に小さな社が建てられ、日本書紀によると、552年(第29代欽明天皇13年)10月13日我が国へ初渡来の釈迦仏を蘇我稲目が賜り、我が国初の寺「豊浦寺」へ祀られましたが、後に疫病が蔓延し、災害は仏教崇拝によると云う理由で、廃仏派の物部尾興(もののべのおこし)によって、仏像が「難波の堀江」へ投げ込まれ、その後、602年(第33代女帝推古天皇10年)4月信濃国(長野)麻績の里人、本田善光と子の善佐によって拾われ、現在は信濃の「善光寺」の本尊として祀られています。



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