斑鳩

法隆寺
    その3

 西院伽藍の国宝「回廊」と「中門」

 西院伽藍へ入って中から国宝の「中門」を見た写真です。中門の両脇に取り付いて連子窓(れんじまど)を持つ「回廊」も飛鳥時代の建造です。 地図で見てお判りの様に、回廊は全体として凸字形になっており、中門と相対する北側の大講堂の両側につながって、西院伽藍境内に並列して建つ五重塔と金堂を取り囲んでいますが、創建当初は全体として□字形で、大講堂の前で直線を成し、大講堂は「回廊」の外に建っていました。柱は、「中門」と共にエンタシスです。所でまた、法隆寺の七不思議の1つに、「法隆寺では蜘蛛が巣を張らない」と云われていますから、法隆寺へ行かれたら「回廊」の天井部分等も良く見て下さい。
 法隆寺の国宝「五重塔」

 飛鳥時代に建てられ我が国最古の「五重塔」です。二重基壇上に建ち、三間四面の本瓦葺、「墨染め法」のさびない釘を用いて造られ、各重の平面と屋根の大きさは逓減率(ていげんりつ)が大きく、また、五重目の柱間は初重の半分で、安定感が増し、興福寺の五重塔より18.5m、薬師寺の三重塔よりも2.6m低く、高さは基壇上31.5m。それでもずっしりとした容姿の塔で、初重にのみ板葺の裳階(もこし)を付け、柱の胴張りが小さく、建築細部様式は隣の「金堂」よりやや時代が下がると云われています。なお、塔は釈迦の骨を奉安する為のストゥーパ(塔)で、最下層内陣に、奈良時代初期に造られた釈尊入滅の涅槃(ねはん)像の塑像群が安置され、塔心礎は地下3mの所に在って、舎利孔に舎利容器が納められ、その模造品が大宝蔵殿に展示されています。また、写真では判りずらいけど、法隆寺七不思議の1つに「五重塔の鎌」があり、頂上の9つの丸い輪(宝輪、相輪)の最下部に刃を外に向けて、4本の鎌が掛かっています。
 法隆寺の国宝「金堂」

 二重基壇上に建つ「金堂」は間口5間で、奥行4間の重層入母屋造です。胴張りの強くて太いエンタシスの円柱、深い軒を支える雲斗と雲形肘木、上層高欄の卍崩しの組子、人の字形の割束等、建築の細部にわたって六朝様式(隋唐朝の統一以前の中国南部の様式)の影響と云われる飛鳥様式の特長をよく示しているけど、上層部の突き出した軒下の龍の彫刻を施した支柱は、元禄の大修理で後から建てられたもので、金堂内は、中央内陣に須弥壇を築き、中の間には、623年(推古天皇31年)司馬鞍作首止利(しばくらつくりノおびととり)の作、国宝で本尊「銅造釈迦三尊像」が安置され、東の間、西の間にも国宝仏があります。
 西院伽藍の「経蔵」と「大講堂」

 西院伽藍内の境内から北西に建つ「経蔵」と北側の「大講堂」です。国宝の「経蔵」は、経典(きょうてん)を納める施設として、奈良時代楼造で建立され、壁面に見える二重虹梁(こうりょう)と、その受けの蟇股(かえるまた)の架構が良く整い、「経蔵」内には、日本へ天文、地理学等を伝えた百済の学僧、観勒(かんろく)僧正座像を安置しています。また、塔や金堂の後、天平時代に建立の「大講堂」は、925年(延長3年)焼失したが、990年(正暦元年)再建され、その時に「大講堂」の前を通っていた回廊も屈曲して「大講堂」の両側に接続させ、堂内には国宝の「薬師三尊像」や「四天王像」等を安置しています。

 西院架藍内の「五重塔」と「金堂」

 西院架藍を出て、鏡池の東側から西院架藍内の「五重塔」と「金堂」の屋根を撮した写真です。 国宝の「金堂(こんどう)」は、飛鳥時代に建立され、世界最古の木造建築で、写真では見えないけど、初重の裳階(もこし、飾り屋根)は、奈良時代に付け足されました。金堂内には、法隆寺のご本尊が安置され、聖徳太子の為に造られた金銅(こんどう)釈迦三尊像、太子の父君用明天皇の為に造られた金銅薬師如来座像、母君穴穂部間人(あなほべノはしひと)皇后の為に造られた金銅阿弥陀如来座像、それを守護する様に我が国最古の四天王、その他では、惜しくも昭和24年焼失した世界的に有名な壁画の模写パネルなどです。
 法隆寺の「鏡池」と「子規の句碑」

 西院架藍の東隣に在る国宝の「聖霊院」の前に法隆寺の「鏡池」が在ります。池の西側の 畔に、正岡子規が明治28年に法隆寺を訪れて、茶店で好物の柿を食べた時の有名な俳句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句碑が建っています。 所で、また法隆寺の七不思議の1つに「法隆寺の因可の池の蛙は片方の目がない」と云われていますが、法隆寺には他にも沢山池が在り、「鏡池」の蛙の事では有りませんから呉々もお間違えなき様に。なお、聖霊院(しょうりょういん)には、大型厨子 (ずし)に安置された秘仏の聖徳太子座像と侍者の山背王、殖栗王、卒末呂王、恵慈法師も安置され、3月22日には太子像も開扉されます。



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