斑鳩  (その1続き)
 史跡「駒塚(こまづか)古墳」

 「法起寺」から真っ直ぐ南へ行って、国道25号線バス停「法起寺口」の少し南西、道路の南側で出光のガソリンスタンド東隣に史跡の「駒塚古墳」があり、聖徳太子の愛馬「黒駒」、または「烏(からす)駒」とも呼ばれた名馬を埋めた塚です。「黒駒」は太子が諸国に命じて、良馬を求められた時に、甲斐の国から献上された馬で、太子伝による「太子を乗せて、3日3夜で国中を巡り」、「太子が亡くなられた時には、柩(ひつぎ)の側に寄り添い、河内の磯長陵(しながりょう、太子のお墓)まで付いて行き、柩がお墓に葬(ほうむ)られると、目から赤い涙を流して、悲鳴とともに倒れ、すぐ息が絶えた」と伝えられています。
 調子丸(ちょうしまる)塚古墳

 「駒塚古墳」の南東、田圃の中に「調子丸塚古墳」があります。長さ約49mの前方後円墳「駒塚」より少し小さく直径約14m、聖徳太子の舎人(とねり、従者)で、いつも太子に仕えていた調子丸の塚です。「聖徳太子伝暦」に、598年(推古天皇6年)4月太子に甲斐国から足が白く体の黒い駿馬が献上され、それを百済から渡来した舎人の調使麻呂に飼育させ、ある時、調使麻呂を連れて「黒駒」と共に雲の中まで上がって行ったと記されていますが、605年(推古天皇13年)斑鳩宮へ移られた聖徳太子は、同18年9月の条に記されている飛鳥の小墾田宮(おはりだノみや)まで、毎日斑鳩から黒駒に乗って通いました。
 上宮遺跡公園の聖徳太子孝養之像

 「法起寺」から真っ直ぐ南へ行き、国道25号線を渡ると「駒塚古墳」「調子丸古墳」等があって、聖徳太子ゆかりの伝説や言い伝えが残されている地です。更にちょっと南へ行くと「上宮遺跡公園」があって、そこから平成3年の発掘調査で、奈良時代の平城宮や地方の官衙(かんが)跡等に見られるものと類似した掘立柱建物群が発見され、公園の南西部で確認された官衙跡の建物配置では、東西7間(約21m)、南北3間(約9m)以上の「正殿」と思われる東西の棟が見つかり、柱間はほぼ3m(10尺に相当)、また、「後殿」と思われる建物跡等も確認され、今もそれらの跡が判るように遺跡公園として整備されています。
 成福寺(じょうふくじ)の境内に残る門の跡

 「上宮遺跡公園」の直ぐ南に「成福寺」があって、今は金網のフェンスが張り巡らされて境内へ立ち入ることは出来ませんが、この周辺は「大安寺伽藍縁起」にある「飽波宮葦垣宮(あくなみあしがきノみや)」の伝承地で、昔、聖徳太子が膳妃(かしわでノひ)と晩年を過ごされた所です。また、「続日本紀」によるなら、767年(神護景雲元年)女帝の第48代称徳天皇が「飽波宮」へ行幸して、2日間滞在され、更に769年(神護景雲3年)にも、河内由義宮(かわちノゆけノみや)へ向かう途中で立ち寄られ、飽波宮は常設の行宮(あんぐう)であったようですが、また、飛鳥時代の「葦垣宮」もこの辺りと云われています。
 筋違道、太子ロマンの道の道標

  「上宮遺跡公園」に接して「成福寺」の横を通り、奈良盆地の中央部を斜めに横切る道は「筋違道(すじかいみち)」と呼ばれ、当時の道は條里制のため東西南北の方向のみでしたが、女帝で第33代推古天皇の頃、聖徳太子が「斑鳩宮」から安堵町、川西町、三宅町、田原本町、橿原市を横切り「飛鳥京」へ通われた「太子道」です。太子は、片道約20キロの最短道を仕丁(しちょう、従者)の調子丸を従え、愛馬の黒駒にまたがって通われましたが、今でもこの道筋には、多くの太子伝説が残されており、三宅町屏風(びょうぶ)の里、白山神社の境内には「駒つなぎの柳」や、太子が休憩をとられた「腰掛石」等が今もあります。
 興留「素盞鳴(すさのお)社」

 「成福寺」の跡を右に見て、南へ向かうと、JR大和路線「法隆寺駅」から「安堵(あと)町」へ向かうバス道路に出て、左(東)へ行くと、一級河川「富雄川」の「安富橋」を渡った所が「安堵町」ですが、右(西)へ行くと、道路に面して北側に「阿波神社(素佐男神社)」が鎮座し、更に少し北へ入り、左(西)へ向かうと、斑鳩町阿波から興留東の集落に「素盞鳴(すさのお)社」が鎮座しています。創建については不明ですが、多くの古い絵馬が掲げられた「拝殿」の背に建つ朱塗りの「本殿」は、一間社春日造、檜皮葺(ひわだぶき)の小社ながら県文化財です。更に西へ行き、バス道路を南へ行くと「JR法隆寺駅」です。
 いかるがホール(TEL 0745-75-7743)

 JR大和路線「法隆寺駅」の西側の陸橋を越して、南へ行くと、バス道路左(東)側に平成9年9月9日開館した「いかるがホール」があります。誰もが優れた文化にふれ、生涯を通して文化活動に参加し、地域文化を創造する場の拠点として建設され、大小のホールでは、演劇や音楽会などの公演が行われ、映画館並みのスクリーンで映画を観ることができます。また、歴史情報(検索)コーナーも設置され、「不思議の国・いかるが」のとびらが開き、2台の情報検索はタッチパネル式で、日本の世界文化遺産登録他、聖徳太子など4つのテーマの下、映像、音声、文字で情報が得られます。なお、毎週火曜日と年末年始が休館です。
 斑鳩町目安の旧村社「春日神社」

 「いかるがホール」から更に南へ行って、大和川の御幸(みゆき)大橋を渡らず、川沿いに西へ辿ると、堤防沿いの高台に「春日神社」が鎮座しています。祭神は、天児屋根命(あめノこやねノみこと)ですが、創建その他に関する由緒は不明です。しかし、奈良県山辺郡都祁(つげ)村針(はり)の「観音寺」の所蔵「大般若経奥書」に、竜田荘目安(めやす)里「春日大明神」竹林殿へ朝円大徳・浄心禅尼の菩提のため、清原俊益らが願主となって、この経を施入した。と記され、1377年(永和3年)から1388年(嘉慶2年)までの間、南北朝時代に書写をされたもので、永宝元年(嘉慶2年)等と私年号も書かれています。
 三代川を掘った「代官・助宗の碑」

 「春日神社」から「大和川」沿いに西へ向い、堤防を下りて旧村道を更に西へ向かうと、圓教山、華厳院「融念寺」の境内に代官・助宗の「断恨碑」が建っています。江戸時代中期の代官・助宗は、水害で困っていた農民の為に、私財で龍田川支流の塩田川を埋め、排水路として三代川(見代川、現在「JR法隆寺駅」東側から南へ流れて、「イツボ川」と「服部川」を合流し、「大和川」に注ぐ川)を堀ました。これにより五カ村領の農民は救われたが、排水路工事が幕府の許可を得てなかったので捕らえられ、処刑されました。しかし、人々は彼の功績をたたえ、現在も彼の法要を営んで、「融念寺」境内に「断恨碑」を建てました。
 大和川の潜水橋「大城橋」

 斑鳩町目安の「春日神社」から更に西へ向かうと、大和川対岸「河合町大輪田」へ渡る所に「潜水橋」の「大城橋」が架かっています。水面にすれすれの鉄筋コンクリート橋で、「沈下橋」、「潜り橋」等とも呼ばれ、川の水量が少ない通常時にだけ、軽自動車でも渡れるけど、欄干のない橋です。建設費用が安上がりで、機能的な橋ですが、増水時には、橋脚や橋げたが水中に沈み通行ができなくて、また、雨が止むと直ぐに水量が減る大和川の様な川には至極便利な橋です。下流に架かっているJR大和路線の鉄橋を通過する電車の車窓からも南側に一瞬チラと見え、大和川に多くの橋が架かっていますが、潜水橋は、ここだけです。
 伊弉冊命(いざなみノみこと)神社

 また、JR[法隆寺駅]の北へ向かい、バス停「法隆寺駅筋」の西、五百井(いおい)の集落に鎮座するのが「伊弉冊命」を祀る「伊弉冊命神社」で、近世には、「白山権現」とも称し、元は当社の西方にあった法相宗・五百井山「福安寺」釈尊院の鎮守でしたが、1742年(寛保2年)現在地に移転し、本殿は一間社春日造、檜皮葺の小規模な社ですが室町時代の様式を備え、国重文です。なお「福安寺」は、1136年(保延2年)5月15日の「法隆寺金光院灯油田畠注文案」に見え、旧伽藍図で、本堂以外に東之坊、西之坊、観音堂、羅刹女堂、湯屋があったけど、現在は廃寺となって、釈迦堂と呼ばれる本堂を残すのみです。


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