磐余(いわれ)の道と多武峯街道  その7

 桜井市指定文化財「満願寺の枝垂れ桜」

 県道37号桜井吉野線のバス停「聖林寺前」の次がバス停「赤鳥居」で、そこを過ぎて直ぐ右に曲がって農免道路を西へ約300m行くと、桜井市今井谷で、右側の路肩に満願寺の駐車場があり、左側の崖の上に満願寺のシダレザクラが植わっています。談山神社の記録によると、藤原鎌足を祭る八講祭の時に植えられ樹齢約300年、地上1.3mで幹周り約3.9m、幹は地上4mの所で大きく3つに分かれて、一番高い枝は樹高25mもあり、枝は約5mに渡って広がり、毎年4月上旬が見頃です。なお、ここら辺りは、御破裂山(ごはれつやま)の北山麓で、また、少し戻って右(南)へ行くと「談山神社西大門跡」へ至ります。
 第32代崇峻(すしゅん)天皇陵

 「満願寺」から少し戻って右(南)へ曲がらないで真っ直ぐ行き、元の県道37号桜井吉野線へ出て右へ曲がると、バス停「倉橋」で、そこの先を右へ入ると「崇峻天皇倉梯岡(くらはしノおか)上陵」があり、崇峻天皇は第29代欽明天皇の皇子で、泊瀬部天皇・倉橋天皇とも呼ばれました。母は蘇我稲目の娘小姉君(こあねノきみ)で、姉が第31代用明天皇の夫人で聖徳太子の母の穴穂部間人皇女、兄が穴穂部皇子で、物部、蘇我の両氏争乱の後、蘇我馬子に擁立されて、第32代崇峻天皇として即位したが、わずか在位5年で、592年馬子に暗殺されてしまいました。そして崇峻天皇暗殺後、腹違いの推古女帝が即位しました。
 観音寺(TEL 0744-46-0944)

 また、バス道路へ出て、県道37号桜井吉野線を南へ上がると、次のバス停が下居(おりい)で、寺川の下居橋を渡り、東へ17丁(1丁は約109m)登ると、音羽山の中腹(標高600m)に尼寺の融通念仏宗音羽山「観音寺」があり、678年(白鳳7年)創建の「音石寺」で、多武峯の定慧が妙楽寺(多武峯寺の一坊)の鬼門除に建立し、父藤原鎌足作の「千手千眼十一面観音」を安置したのが始りです。境内に県天然「お葉つきイチョウ」、樹高30m、幹周り6m、推定樹齢500年があり、堂から右(東)へ行くと、音羽山への登山道の下に「能因の歌枕」に載っている「音羽の滝」があり、水は眼病に霊験あらたかです。
 「経ヶ塚山」山頂の石塔

 なお、「観音寺」に向って右隣に「九十余神社」が鎮座し、更に右(東)へ行くと、沢に面して護摩祈祷所の「不動堂」で、「音羽の滝」は高地にも関わらず沢蟹がいます。また、そこから胸突き八丁、大きな石ころごろごろの登山道で、更に杉木立の中を岩根っこに躓きながら登ると、音羽山(標高851.7m)の山頂ですが、杉木立が邪魔をして見晴らしはよくありません。なお、尾根道を少し下って、また急坂を登ると、経ヶ塚山(標高890.5m)の山頂で、四面に梵字を彫った石塔が建っています。更に尾根道を南へ下る途中で、眼の前に富士山のような美しい形をした熊ヶ岳(標高912m)が迫り、東方が大宇陀です。
 大峠(女坂傳稱地)

 また、這い蹲るようにして「熊ヶ岳」を登り、そこから熊笹の急斜面を南へ下ると、四等三角点を過ぎた所が大峠です。ここは神武東征の砌、神武天皇即位前紀9月5日八十梟帥(やそたける)を伐つために女軍(めいくさ)を配置した女坂(めさか)です。それを記念して、紀元二千六百年(昭和15年)11月奈良県奉祝会が碑「女坂傳稱地」を建立しました。なお、同様の石碑「男坂傳稱地」は半坂峠に建っています。また、ここは峠の四つ辻で、東へ下りると、大宇陀町の宮奥、南に辿ると三津峠から龍門岳へ至るが、西へ下ると、少し広い道に出て、更に下ると針道で、県道37号桜井吉野線のバス停「不動ノ滝」へ至ります。
 「不動延命の滝」の傍の「破(われ)不動尊」

 なお、バス停「不動ノ滝」は、県道37号桜井吉野線のバス停「下居」から南へ2.5キロほど上がった所で、寺川にそそぐ支流に落差約8mの「不動延命の滝」があり、旧道の角に「破不動尊」と云う大石が横たわり、側面に北向きの不動明王が彫られて祀られていますが、大石は中央から刀で切ったように両断され割れています。1608年(慶長13年)4月談山が鳴動した時に破裂して割れたと伝えられております。なお、多武峯の最高所である御破裂山(おはれつやま、標高607m)には、藤原鎌足の遺骨を改葬した円墳があり、国家異変の際には山が鳴動し、談山神社の本殿(旧寺の聖霊院)の鎌足像が破裂するそうです。
 別格官弊社、談山神社の「屋形橋」

 また、寺川に沿って県道37号桜井吉野線「多武峯街道」を上がると、バスが通るコンクリートの大橋の横に、人のみが通れる「屋形橋」が架かっています。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、朱塗りの欄干の上の黒い擬宝珠には寛政三年(1791年)の刻銘がありますが、昔から談山神社の参道に架かっていた橋は、「屋形橋」の名で親しまれて来たけど、車が通る様になって、昭和54年9月コンクリートの橋が造られ、その時に「屋形橋」は付け替えられ再建されました。なお、談山神社行のバスは、ここから更に新しく拡幅された道路を上って、山腹の駐車場まで登りますが、昔はここから歩いて「東大門」を通り参拝しました。




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