金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その8

 外堀緑地(そとぼりりょくち)

 「薬園八幡神社」を出て、また東へ行くと、直ぐに「外堀緑地」で、平成7年7月建設大臣野坂活賢から歴史・文化部門で「手づくり郷土(ふるさと)賞」をもらっています。なお、郡山城の外堀は、1595年(文禄4年)秀吉の五奉行の1人であった増田長盛が20万石で入部して、翌年から普請を開始し、東側は秋篠川の流れを東に向け佐保川と直結させ(奈良口の川違え)元の川を堀にして、西と南側は丘陵の断崖や溜池を巧みに利用し、北側は谷池に添う堀を巡らし、総延長50町13間(約5.5キロ)を殆ど素堀りで行い、内堀や中堀のように石垣を積む事なく仕上げ、掘削した土は堀の内側に盛って土塁としていました。
 外堀緑地「北門」

 かっての外堀の土塁は、松または藪で覆われ、雄大なものでしたが、近年それらは殆ど旧観を留めず、溜池として残り、西の蛇ケ池から右回りに尼ケ池、番鐘池、鴨ケ池、代官池、正願寺裏池、小川町裏池、広島池、高付上池、宮本上池、常念寺裏池、材木町裏池、薬園寺裏池、洞泉寺裏池、牢屋敷裏池、八幡堀池、矢田筋裏池、高塚池、箕の山浦池、大職冠裏池などで、その内、緑地の「北門」が建てられた「常念寺裏濠」から「南門」の建てられた「洞泉寺裏濠」までが近頃「外堀緑地」として整備され、「北門」は1724年(享保9年)城下に57ケ所もあった木戸(番所)の「冠木(かんき)門」をイメージして造られました。
 稗田(ひえだ)環濠集落

 「外堀緑地北門」前の通りを南へ行って、直ぐ左へ曲がると、JR大和路線「郡山駅」で、そこから南へ2つ目の踏切を渡り、真っ直ぐ南下して「佐保川」の「大師橋」を渡って東へ進むと、駅から800mで、「稗田環濠」へ至ります。全国的に有名な環濠の1つで、市の文化財にも指定され、集落全体が濠で囲まれている形式として、その姿を今によく残しています。「稗田環濠」も戦国時代に外敵から集落を守るために造られ、環濠内の稗田集落に関する最も古い資料は、1444年(文安元年)の「経覚私要抄」の記事で、古市胤仙が稗田の陣を敷いた事が書かれ、1479年(文明11年)筒井氏が稗田を攻めて焼いています。
 売太神社(TEL 0743-52-4669)

 「稗田環濠集落」の南側に「売太(めた)神社」が鎮座しています。祭神は稗田阿礼(ひえだノあれ)命と、彼の先祖の猿田彦神、天宇受売命(あめノうずめノみこと)で、太古より古代神楽舞で朝廷に奉任した猿女君稗田一族は、朝廷より養田(やしないた)を賜り、その田の持主が猿女田(さるめた)主で、同族の稗田阿礼は648年(大化4年)に生まれ、天武天皇に仕えた舎人で、675年(天武天皇4年)「帝皇日継」と「先代旧辞」を誦習し、712年(和銅5年)元明天皇の御代、朝廷は阿礼の記憶していた歴代天皇の事績を太安萬侶に筆録させ、後世に残す事にして、これが我が国で最古の文学書、「古事記」三巻です。




奈良観光表紙に戻る  大和郡山周辺図を開く  前のページに戻る   次のページに進む