奈良南西部 西の京  その12

 奈良市中山町の「八幡神社」

 「秋篠寺」から北へ行くと、「いぬい池」の左側に「少年院」があり、その北が「奈良市立平城中学校」で、更にその北に「秋篠川」が流れ、橋を渡って中山町のバス停「平城中山北口」から西の集落へ入ると、高野山真言宗松嶺山「安楽寺」の西隣に「八幡神社」が外山(そとやま)の集落の中央に鎮座しています。祭神は、誉田別(ほんだわけノ)命、天児屋根(あめノこやねノ)命です。本殿は、一間社流造・銅板葺、室町様式を踏襲し県指定文化財で、本殿正面扉の鍵柄に永正九年(1512年)の銘があり、本殿前の四角形石灯籠に「奉寄進大川八幡宮為二世安楽」とあり、昔は「大川八幡」とも称し、大川は外山の旧名です。
 忍熊山(おしくまざん)「西方寺」

 中山町の「八幡神社」からまた東隣の「安楽寺」と「大辨才天」の間を通って、狭いバス通りへ出てから北へ行き、バス停「南押熊」から西へ入って行くと、左(南)に浄土真宗本願寺派篠尾山「極楽寺」がありますが、少し奥まった右(北)側の石段を十六段ほど上がった高台に浄土宗忍熊山西山禅林寺派「西方寺」があります。ご本尊は、「十一面観世音菩薩像」で、元は押熊町の「八幡神社」の境内にあったと言われる神宮寺である「法華経寺」に安置されていましたが、「法華経寺」が火災に遭って後、当寺に移されて来またらしいです。なおまた、旧「法華経寺」は別名を、「福成寺(ふくじょうじ)」と呼ばれていた様です。
 「忍熊王」と「香坂王」の旧跡地

 「西方寺」と「極楽寺」の間を通り、西へ上がって「蛭池」から北側の山へ入ると、押熊町「八幡神社」の東側に忍熊(おしくま)王と兄の香坂(かごさか)王の旧跡地があります。彼等は、仲哀天皇の皇子で、母は彦人大兄の娘・大中姫(おおなかつひめ)です。継母の神功皇后が三韓征伐から腹違いの弟(後の応神天皇)を連れて凱旋する時、兄弟で皇后軍を襲おうとしましたが、兄は斗賀野(とがの、大阪市北区兎我野町)で誓約狩(うけがり)の時、猪に食い殺され、弟の忍熊王は、皇后軍を攻めたが、撃破されて、山背の莵道(うじ、宇治)へ逃げ、更に山背と近江の境、逢坂を越え、瀬田の渡し場で入水して亡くなりました。
 奈良市押熊町の「八幡神社」

 「忍熊王」と「香坂王」の兄弟墓の様な旧跡地から山際を西へ行くと直ぐ、押熊町の「八幡神社」が鎮座しています。祭神は、品陀和気命(ほんだわけノみこと、応神天皇)です。創建は、はっきりしませんが、1315年(正和4年)「西大寺」と「秋篠寺」が相争って、大川・押熊の堂舎・神殿が壊されましたが、たぶんその頃かも知れません。なお、境内にある元禄13年(1700年)の石灯籠に「八大龍王」とありますけど、中山町の「八幡神社」を勧請したとかで、元禄15年の「八幡宮四通ッ座次第押熊宮座衆」等の宮座記録が残っており、かっては神宮寺として「和州御領郷鑑」に記載の「福成寺」が境内にありました。
 常光寺(TEL 0742-45-3272)

 押熊町「八幡神社」からまた、「蛭池」まで戻り、池の南側を通って西へ向うと、山際で突き当たった所に真言律宗篠尾山「常光寺」があります。本尊は宝山湛海作の「大聖不動明王立像」。他に平安時代後期の運慶作で、市指定文化財の「木造毘沙門天半跏像」を安置し、像は桧材で、像高36.2cm、岩座までの一木造(いちぼくつくり)です。なお、毘沙門天信仰が起こったのは、平安時代以降のことで、これが奈良において盛んになっていったことを示す貴重な資料の1つですが、平安時代にまで遡(さかのぼ)る半跏の毘沙門天像は他に例がありません。なお、拝観は前もって予約を入れて頂くと、寸志にて拝ませてもらえます。
 国史跡「石のカラト古墳」

 「常光寺」から東へ行き、バス通りに出て北へ向うと終点「押熊」で、更に北へ行くと、県道52号奈良精華線と「ならやま大通り」の交叉点がバス停「押熊北口」で、近鉄京都線「高の原駅(万葉歌碑巻10−1887が建つ)」行のバスもあるが、歩いて駅まで向うと、京都府木津町と奈良市神功の府県境に「石のカラト古墳」があります。上段が直径9.2m、下段が一辺約14mの「上円下方墳」で、全面に葺石が施され、墳丘下に三条の暗渠が走り、高松塚古墳と同じ横口式石槨(せっかく)をもち、キトラマルコ山と共に兄弟古墳と見られ、終末期古墳の中で貴重な遺構ですが、1基だけ平城京の北にあるのが不思議です。




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