水辺の「川西町」、「三宅町」から桃太郎の古里「田原本町」 辺り  その7
 「結崎(ゆうざき)の松」

 灌漑治水に尽くした人の霊を祀る「神社」から更に東へ行き「寺川」の土手に上がると、「たつみ橋」のたもとに「結崎の松」が植わっています。昔「寺川」に一本の松の苗が流れ着き、そのまま大きく成長して枝ぶりも良くなったある日、明治41年10月奈良県下で、明治天皇が御幸し、陸軍大演習が行われ、その際「寺川」のほとりの松が格好の目印になり、陸軍の司令官から「結崎の松として大事にせよ」と云われて、その後、松は大事に育てられたが、昭和50年代初めに枯れたので、今は地元の人が2代目、3代目と植え替えておられるが、それでも、近頃の「結崎の松」は土質と大気汚染の関係からか余り育たないようです。
 面塚(めんづか)、観世発祥の地

 「寺川」の「たつみ橋」を渡って、右へ行き、土手上の道を川沿いに西へ辿ると、「宮前橋」の手前で、川と反対の土手下に「面塚」があります。いつの頃か知らないけど、この地に天から「翁の面とねぎ種」が降ってきて、ここに「面塚」を造って面を埋めたが、また、この地は、伊賀国小波多で座を創った観阿弥、世阿弥の父子が伊賀から移り住んで、結崎座と称して芸道に精進した本拠の地の跡でもあります。観阿弥父子は、ここから南都春日大社、興福寺の能に参勤し、その後、京都今熊野の能において、室町幕府三代将軍足利義満に見出され、その知遇を得て益々円熟の芸境に到達し、「結城座」は、大和猿楽4座の1つです。
 聖徳太子が休憩した「白山(はくさん)神社」

 「宮前橋」のバス停「屏風口」から南へ向かうと、「太子道」で、「式下中学校」の前を過ぎると「川西町」から「三宅町」に入り、右(西)側に屏風の里の「白山神社」が鎮座しています。お社は小さいけど、その昔、聖徳太子が「飛鳥」から田原本町「宮古」、三宅町「伴堂」を経て、三宅町「屏風」を通り、川西町「唐院」を過ぎ、「大和川」の「太子橋」を渡り、安堵町から斑鳩町の「法隆寺」へ帰宅されていた時、途中の三宅町「屏風の里」に鎮座する「白山神社」の小さな境内に、黒駒を止めておられましたが、今でも「駒つなぎの柳」と共に、太子が腰をかけて、休憩を取られたと云う「腰掛石」が木の册の中にあります。


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