聖 徳 太 子 の こ と

 聖徳太子は、父が橘豊日命(たちばなノとよひノみこと、第29代欽明天皇の第4皇子、母は蘇我稲目の娘・堅塩姫)、母が穴穂部間人皇女(あなほべノはしひとノひめみこ、欽明天皇の皇女、母は蘇我稲目の娘・小姉君)、曾祖父が継体天皇と蘇我稲目で、

 574年(敏達3年)正月元旦第2皇子(母の第1皇子)として、祖父・欽明天皇の別宮、橘の宮(高市郡明日香村の橘寺、太子建立七大寺の1つ、本尊は太子35歳の摂政像)で生まれたが、その前年、母の夢の中に優しい顔をした金色の僧が現れ「私はこの世を救うために人間として生まれるから、貴女のお腹を貸して欲しい」と言い、皇女が「貴方は誰」と尋ねると、僧は「私は西方に住む救世菩薩」と答え、それから間もなく、母が懐妊し、庭を散歩している時、厩(うまや)の辺りで急に産気付き、太子が生れたので、名を厩戸豊聡耳皇子(うまやどノとよとみみノみこ)と称しました。

 父・大兄皇子(おおえノみこ、橘豊日命)は、太子の誕生を大層喜び、侍者を庭に集めて様子を聞くと、忽ち赤黄の光が西方より殿内を照らしたので、有司(ゆうし)に命じて大湯坐(おおゆえ)、若湯坐を定め、太子を入浴させ、皇女が懐を開いて抱くと、太子の身はとても芳しく、また、百人の美女の中から3人(蘇我馬子の娘・月益姫、物部守屋の娘・王照姫、小野妹子の妹・日益姫)を乳母(めのと)に選び、彼女らは今、太子町の「西方院」に眠っています。

 なお、扶桑略記(ふそうりゃっき)によると、太子は中国南北時代の高僧南岳(なんがく)大師の生まれ変わりで、南岳大師は慧思禅師(えしぜんし)とも言い、既に中国で晋(しん)、宗(そう)、斉(さい)、梁(りょう)、陳(ちん)、周(しゅう)の各六代に渡って生まれ変わり、いずれの代においても中国の五大名山(東岳泰山、西岳崋山、北岳恒山、中岳嵩山)の1つ南岳衡山(こうざん)に登り、法華三昧の修行をしました。

 575年(敏達4年)太子2歳は、2月15日釈迦入滅の朝、東へ向かって手を合わせ「南無阿弥陀仏」と唱えたが、その時の姿は、頭を丸め、上半身裸で、腰から下に赤い裳(も)をまとい「南無仏の像」として、鎌倉時代以降の像に造られました。

 576年(敏達5年)3月桃の花が綺麗に咲いていた朝、太子が後園で遊んでいると、父が松の枝と桃の花を手に取って「太子よ、お前はどちらが好いか」と尋ねると、太子は「私は松が好きです」と答え、父が「何故か」と再度尋ねると、太子は「桃の花は美しいけど儚(はかな)く、松は万年枯れる事がないからです」と答えました。なお、この年、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、太子の叔母、欽明天皇の第4皇女、母は蘇我稲目の娘で馬子の姉・堅塩媛、幼名は額田部皇女、後の推古天皇)が第30代敏達天皇の后になり、

 また、太子は長じてそれぞれ多数の人の声を聞き分けたので、名を上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやノうまやどノとよとみみノひつぎノみこ)とも云い、太子には、1.厩戸、2.豊聡耳、3.八耳(やみみ)、4.上宮、5.聖王、6.法王(法皇)、7.法大王(法王大王)、8.法主王と8つ呼び名があり、聖徳太子は諡号(おくりな、しごう、死後の名)で、最初に現れるのは、706年(慶雲3年)「法起寺」の三重塔の露盤銘にある「上宮太子聖徳皇」です。

 581年(敏達10年)太子8歳の時、蝦夷数万の大軍が飛鳥に来襲し、その際、太子が墨坂の地に一時非難して、無事だったので、同年8月奏請勅許を得たのが「宗祐寺」ですが、なお、三輪明神にも祈願して、目出度く賊徒平定の後に「十一面観音」を彫って建立したのが「大三輪寺(平等寺)」です。また、中国では、この年国が統一され、隋(ずい)帝国が打ち立てられました。

 584年(敏達13年)蘇我馬子が仏殿を造って、鹿深臣(かぶかノおみ)と佐伯連(むらじ)らが百済から持ち帰った弥勒の石像と仏像一体を石川精舎に安置し、二人の尼に奉仕させたが、これが我が国における仏法の初めです。

 585年(敏達14年)太子12歳の時、蘇我大臣稲目宿弥が大野丘の北に豊浦寺を建立したけど、6月物部守屋らの手で焼かれ、同年8月第30代敏達天皇が崩御して、翌586年(用明天皇元年)太子13歳の父・橘豊日命が磐余池辺雙槻宮(いわれいけノべノなみつきノみや)で第31代用明天皇に即位しましたが、586年(用明天皇元年)5月敏達天皇の遺骸を安置した殯宮(もがりノみや、奈良県北葛城郡広陵町廣瀬)に穴穂部皇子(あなほべノみこ、太子の父の異母弟)が押し入って、鎮魂の儀礼を行っていた敏達天皇の皇后・炊屋姫(かしきやひめ、穴穂部皇子の異母姉、後の推古天皇)を犯そうとしたけど、敏達天皇の寵臣三輪君逆が警衛の隼人を大声で呼んで、殯宮の門を固く閉ざし、炊屋姫を守りました。

 586年(用明元年)太子13歳が建立48ヶ寺の1つ、比曽寺(世尊寺)を創建して、父用明天皇の為に東塔を、炊屋姫(かしきやひめ、父の妹、叔母、後の推古天皇)が亡き夫の敏達天皇の為に西塔を建立され、今はそれらの礎石が境内に散在し、また、本堂の裏に太子御手植えの「壇上桜」が毎年花を咲かせています。

 587年(用明2年)4月天皇が群臣に詔して「朕(われ)、三宝に帰(よ)らむと思う、卿等議(いましらはか)れ」と云われたけど、物部守屋大連と中臣勝海連らが「何ぜ国神に背き、他神を敬うや」と云い、蘇我馬子宿弥大臣が「詔に随ひて助け奉(まつ)るべし」と云って、5月太子の父用明天皇が崩御され、太子が極楽寺を創建し、穴穂部皇子が、同じ排仏派で従兄の宅部皇子(やかべノみこ)を味方に付け、皇位を伺ったが、蘇我馬子が泊瀬部皇子(はっせべノみこ、太子の母の弟、欽明天皇の第12皇子、母は大臣蘇我稲目の娘・小姉君)を自派に引き込み、穴穂部と宅部の二皇子を暗殺し、二人を藤ノ木古墳に葬り、8月穴穂部皇子の弟、泊瀬部皇子を馬子が第32代崇峻(すしゅん)天皇に即位させ、倉梯に柴垣の宮が造られました。

 所で、朝護孫子寺は、日本初の毘沙門天王が出現した根本霊場で、587年(用明2年、寅年)寅の月の7月、寅の日、寅の刻、崇仏派の太子や蘇我馬子が排仏派の仏敵・物部守屋の討伐を祈願した折、毘沙門天王が虎を従えて出られ、太子に戦勝の必法と六目の鏑矢(かぶらや)を授け、御年14歳の太子らは見事、河内国稲村城の物部守屋を討伐して「信ずべき、貴ぶべき山」と叫び、鎧兜(よろいかぶと)を着けた毘沙門天王(多聞天)像を太子自らが彫って守護神とし、寺号を信貴山とされ、本尊は毘沙門天(秘仏、12年に1度、寅の年の正月に15日間だけ開帳)、今も広く「信貴の毘沙門さん」の名で親しまれ、福徳開運の利益は霊験あらたかです。

 なお、同2年7月今は「下の太子」と呼ばれている大阪府八尾の真言宗・神妙椋樹山(しんみょうりょうじゅざん)大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)で蘇我馬子、太子らが排仏派の守屋を討って、その首を洗った「守屋首洗池」が今ま門前に在り、境内に太子乗馬の蹄の後が残る「馬蹄石」、太子が九死に一生を得た「神妙椋」等も残っており、その椋(むく)の大樹の空洞に太子像が安置され、更に大聖勝軍寺の近くに守屋の墓も在り、同年4月崇仏の可否を争った時の守屋の言葉「何背国神敬他神也(何ぜ国つ神に背き、他の神を敬うや)」が碑に刻まれ、迹見赤梼(とみいちい)が守屋を射抜いた鏑矢(かぶらや)を埋めた「鏑矢塚」、その弓を埋めた「弓塚」等も在り、

 更に、守屋討滅にあたり、蘇我馬子と太子の他、泊瀬部皇子、竹田皇子、難波皇子、春日皇子、紀(き)男麻呂、巨勢(こせ)比良夫、膳賀托夫、葛城鳥那羅、坂本、平群(へぐり)、阿倍、春日、大伴咋(くい)らも共に戦ったが、相手の軍兵は強く、三遍も退却し、そこで太子は「誓願すること以外に成功しないだろう」と云い、白膠木(ぬりで)の木を切り取り、素早く四天王像を刻んで、頭髪の上に置き、「今もし我を敵に勝たしめ給うなら、必ず護世四王のために寺塔を建てん」と誓い、その結果、勝利を得ました。

 なお、物部と蘇我の仏教争いを逃れて、母の間人皇后は、その間、丹後半島大浜の里へ退座(たいざ)し、争いが済んでから、斑鳩に遷座されたが、京都府丹後町間人(たいざ)は、冬場に幻の間人(たいざ)ガ二(松葉ガニ)の獲れる所です。

 588年(崇峻元年)蘇我馬子が渡来系豪族・衣縫樹葉(きぬぬいノここノは)の屋敷を壊して、法興寺(飛鳥寺)の建立を始めると、太子15歳はその造営を助けました。

 589年(崇峻2年)7月近江の臣(おみ)を東山道(やまのみち)に、宍戸(ししひと)の臣を東海道に、阿部の臣を北陸道に遣わし、それぞれ蝦夷(えみし)の国、東方の海辺の国、越(こし)の国を巡回させた頃、太子の夢枕に仲哀天皇の始の妃大中姫(おおなかつひめ)が立って、無念の最後を語ると、彼女とその皇子(香坂王、忍熊王)の鎮魂の為、寺を建立し、それが今の西国三十三ヶ所第二十四番札所「中山寺」で、境内に大仲姫の墓と云う巨大な石室があり、中に石棺が安置されています。なお、この年、隋が中国を統一しました。

 591年(崇峻4年)4月殯が6年間続いた敏達天皇の遺体が、彼の母の石姫が葬られている磯長(しなが)陵に合葬されて、11月4日新羅(しらぎ)に占領された任那(みまな)再興の為、2万余の大和朝廷軍が、紀男麻呂(きノおまろ)、大伴咋(おおともノくい)、巨勢猿(こせノさる)、葛城烏奈良(かつらぎノおなら)の4人を大将軍にして、筑紫(つくし)へ向い、北九州に集結して新羅に圧力をかけ、朝鮮半島出身の吉士(きし)氏の二人を新羅、任那へ派遣して実状を探らせたが、

 592年(崇峻5年)10月4日太子19歳の叔父・崇峻天皇が献上品の猪を見て、「いずれの時にか、この猪の頸を斬る如く、吾が嫌(ねた)しと思う所の人を斬らむ」と云ったのを聞いた妃の小手子(おてこ、大伴狭手彦の娘)媛が大臣(おおきみ)蘇我馬子に告げて、11月3日天皇は馬子の命を受けた東漢直駒(やまとノあやノふたいこま)により群臣の面前で弑逆(しいぎゃく)され、一晩の通夜もなく、殯(もがり)もなく、追悼の儀式さえなく、倉椅崗(くらはしノおか)に埋葬され、また、東漢直駒は馬子の娘で皇族の嬪(みめ)・河上娘(いらつめ)を偸(ぬす)んで妻にしたのが露見して、蘇我馬子宿袮(すくね)に殺害され、

 593年(推古元年)12月8日敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫39歳が豊浦宮で我が国初の女帝として大臣蘇我馬子ら群臣百官を従え、第33代推古天皇に即位され、飛鳥地方に宮都が営まれ、桜井市池之内の磐余池上陵(いわれノいけのへノみささぎ)に埋葬されていた太子の父・用明天皇の御遺体を河内磯長陵に改葬しました。

 594年(推古2年)2月推古天皇が三宝興隆の詔をくだし、4月10日髪を両耳で丸く巻き上げる角子(あげまき)に結い、白の衣袴(きぬはかま)に環頭太刀(かんとうノたち)を帯びた太子(豊聡耳皇子)20歳が、皇太子になって摂政となり、内政、外交に尽力し、また、太子は物部氏の討伐に助力を頂いたお礼に、太子建立七大寺の1つ「四天王寺大護国寺」を大阪市天王寺区元町に建立され、その建築様式は、南大門、中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ「四天王寺方式」で、西門は、極楽の東門に相対して建てられ、春秋の彼岸に沈む夕日が西門より真西に拝されます。

 595年(推古3年)5月太子22歳の時、仏法の師・慧慈(えじ)が高句麗(こうくり)から来日して、同年来朝した百済僧の慧聡(えそう)と共に「三宝の棟梁」になり、7月大和朝廷軍二万余が4年に及ぶ筑紫の駐屯から帰還しました。なお、高僧の慧慈は、その後20年も日本に滞在したけど、後半は師弟の関係が逆転し、慧慈が太子を崇拝する有様でした。

 596年(推古4年)法興寺(ほうこうじ、飛鳥寺)が竣工し、蘇我馬子の娘善徳(ぜんとく)が寺司になったが、太子は大観世音教寺(神童寺)を建立し、自ら彫った「千手観音」を安置して、10月慧慈や、大和の豪族葛城臣(かつらぎノおみ)らと夷与(いよ)の道後温泉に清遊され、霊妙な湯に深く感動し、湯岡(ゆノおか)碑文で「日月は天にありて私せず、神の井は下に出でて給(あた)へざるなし・・・、道後は、霊妙な温泉を囲んで椿が互いに枝を差し交わして生い茂り、朝鳴きの鳥が囀(さえず)る中、椿の花は照り合い、恰も天寿(てんじゅ)国にある思いがする」と云われました。

 598年(推古6年)4月太子が諸国に命じて、良馬を求められた時、甲斐ノ国から足が白く、馬体の黒い駿馬が献上され、それを「黒駒」または「烏(からす)駒」と呼んで、百済から渡来した舎人の「調使麻呂(調子丸、ちょうしまる)」に飼育させたと、「聖徳太子伝暦」に記され、

 599年(推古7年)4月27日大和で地震があり、多くの家屋が倒潰し、9月百済から日本初の駱駝(ラクダ)1頭、驢馬(ロバ)1頭、羊2匹、白雉(はくち)1羽が朝廷に献上されました。

 600年(推古8年)2月新羅が任那を攻め、任那救済のため、一万余の新羅討伐軍が、境部の臣を大将軍として、副将軍は旧物部系の穂積の臣で、海峡を渡り、5つの城を落として新羅を慴伏(しょうふく)させたけど、大和朝廷軍が召還すると、直ぐまた新羅が任那を侵したので、大伴咋と坂本糠手(あらて)が高句麗と百済に赴き、日本との三国同盟を結び、新羅を攻め、この年、第1次遣隋使が派遣され、太子27歳は野で芹(せり)を摘んでいた膳大娘女(かしわでノおおいらつめ、膳部加多夫古の娘)を妃に迎え、彼女は芹摘姫(せりつみひめ)と呼ばれました。

 601年(推古9年)太子28歳の時、法隆寺建立の地を求めていた所、「龍田大社」の神が老翁(ろうおう)の姿で現れ、太子に斑鳩(いかるが)の地を教え、「我、守護神たらん」と告げたので、同年2月斑鳩で新しい宮の造営を始めました。なお、斑鳩(いかる)とは、鳩に似た鳥で、頭と尾が黒く、古代この地方に群棲し、太子をこの地へ導いたので、当地を斑鳩と命名されました。

 602年(推古10年)朝廷は隋へ遣使を出す傍ら、崇峻天皇の時からの懸案であった新羅征討を2月1日に発令し、太子の同母弟・来目(くめ)皇子を大将軍に任命して、軍勢約二万五千が筑紫の島郡(福岡県糸島郡)まで遠征して駐屯中、百済から僧観勒(かんろく)が渡来し、暦、天文、地理などの書物を伝えました。

 603年(推古11年)2月4日来目皇子が渡海を前にして、20歳代で薨去せられたので、もう1人の異母弟、来目皇子の兄、当麻(たいま)皇子が大将軍に任じられ、7月3日彼は妻・舎人姫王(とねりノひめみこ、推古帝の一番下の妹)を同伴し、その妻が途中の明石で病没すると、皇子は戦意を喪失し都へさっさと引き揚げ、遠征が頓挫し、この間、百済、高句麗は新羅に敗北を帰しましたが、同年10月推古天皇は、手狭な豊浦宮から近くの小墾田へ宮を遷され、11月1日太子30歳は諸大夫を前にして、「私には朝鮮から将来した尊い仏像(国宝第一号仏、木造弥勒菩薩半跏像)がある。誰かこれを恭い拝む者はいないか」と云われると、秦河勝(はたノかわかつ)が前に進み、「私が拝みましょう」と申し出て、京都市右京区太秦(うずまさ)に蜂岡寺(はちノおかでら、太子建立七大寺の1つ、真言宗御室派別格本山蜂岡山広隆寺」)を創建し、太子はその地が300年後に都になる事を予言して、12月5日太子は、儒教にある五常の徳目「仁・義・礼・智・信」からとって並べ替えた「徳、仁、礼、信、義、智」に大小を付け冠位十二階(冠の色は上から紫・青・赤・黄・白・黒の六色で、大小は色の濃淡で区別)を制定し、また、大楯と靫(ゆぎ)を作り、旗幟(はた)に絵を描かせて、朝廷の儀仗を整え、翌年宮廷の門の出入りの作法を中国式に改めました。

 604年(推古12年)元日小懇田の新宮殿で史上初の冠位を叙する式典が行われ、大伴咋と境部の臣が最高位の大徳に叙され、4月太子31歳は、十七条の憲法(第一条、和を以て貴しとなす)を制定して、10月に4年の歳月をかけた太子の斑鳩宮がようやく完成すると、

 605年(推古13年)諸王諸臣に褶(ひらおび、隋の礼服の一部)の着用を命じて、朝廷の儀容を整え、10月太子は磐余(いわれ)の上宮(かみつみや)から、母や妃、子供ら、一族全てを率いて斑鳩宮へ移り住み、「龍田大社」の分霊を「龍田神社」に祀って、法隆寺の鎮守にしました。また、太子は、雷丘辺りにあった小墾田宮まで、仕丁(しちょう、従者)の調子丸を従え、愛馬・黒駒に乗って、毎日斑鳩から奈良盆地を斜めに横切る筋違道(すじかいみち、太子道、片道18キロ)を通ったが、今でも安堵(あんど)町の「飽波神社」の境内に御幸石があり、三宅町屏風(びょうぶ)「白山神社」の境内に「駒つなぎの柳」や、太子が休まれた「腰掛石」が残っており、途中で喉が渇き、井戸水を飲まれ、「口中これ新なり」と云われた所が今の橿原市新口(にのくち)です。

 606年(推古14年)推古天皇が前年4月鞍作止利仏師に命じて造らせた「銅造釈迦如来坐像」、丈六(約4.85m)の「飛鳥大仏」を法興寺に本尊として安置しましたが、現在も安居院に安置され、日本最古の仏像で、百済の高僧・観勒(かんろく)が渡来すると、彼を「法興寺」に居住させました。また、太子33歳は、7月「橘寺」で推古天皇を前にして、勝鬘経と法華経を三日間に亘って御講讃になると、南のミワ山(フグリ山)に千仏頭が現れ、太子の冠から日月星の光が輝き、蓮華の花弁が庭一面に降りそそぎ、それを埋めたのが橘寺の「蓮華塚(れんげづか)」で、塚は1畝(ひとせ、36坪=約100平米)の大きさの基準とされ、「畝割(うねわり)塚」とも云い、また、太子が岡本宮で法華経を講じると、天皇は大いに喜び、太子に播磨国の水田百町を施したので、太子はこれを斑鳩寺に納めました。

 607年(推古15年)太子は、推古天皇と共に中宮尼寺(にじ、中宮寺)を建立し、7月3日第2次遣隋使として、大礼(たいらい、冠位十二階の上から5番目)小野妹子が大使(おおつかい)、鞍作福利(くらつくりノふくり)が通事(をさ)に任命され、隋の第二代皇帝、煬帝(ようだい)に遣わして、国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無(つつがな)きや」を渡し、大陸文化の吸収に努め、また、太子と蘇我馬子が百寮を率いて、神祗を祭りました。

 608年(推古16年)4月小野妹子が隋の国使裴世清(はいせいせい)ほか、12人を伴って筑紫に帰ると、吉士雄成(きしおなり)が迎えに赴き、6月15日30艘の飾り船が並ぶ難波に帰港したけど、小野妹子は煬帝(ようだい)の国書を帰国の途中、百済人に掠め盗られたので、大礼の冠位を剥奪し流刑に処されそうになったが、推古帝の聖断で赦され、8月3日隋の特使、裴世清ほか12人が煬帝の国書を携え、飛鳥に向うと、太子は大礼・阿倍比羅夫を遣わし、海柘榴市に飾り馬75頭を並べ、上陸する彼らを迎え、8月12日ようやく隋使が飛鳥小墾田宮に入ったが、この当時、日本では手掴みで物を食べていたけど、中国では既に箸を使っていたので、急遽日本でも箸を使うようになり、これが日本で箸の使い初めです。

 なお、9月11日第3次遣隋使として、再び小野妹子が大使で、小使(副使)吉士雄成、通事鞍作福利が隋に遣わされると、遣隋使学問僧や学生として、南渕漢人請安 (みなみぶちノあやひとしょうあん、32年後に帰国して中大兄皇子中臣鎌足に儒教「周孔の学」を教える)や高向漢人玄理(たかむくノあやひとくろまろ、渡来人)、新漢人旻(いまきノあやひとみん)、倭漢直福因(やまとノあたいふくいん)ら8人も随行して、日本側11人と中国側13人合わせて24人の日中使節団が、壱岐、対馬、百済から黄海を経て隋へ向いました。

 609年(推古17年)9月小野妹子らが帰国しましたが、通事の鞍作福利は、隋に留まり、日本へ帰って来ず、その後一切、語学に堪能な彼は、その名を歴史に留めておりません。

 610年(推古18年)3月高麗(こま)の王が、儒教と仏経に通じた曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)を遣わして、絵の具、紙、墨、初めての碾磑(てんがい、石臼)を伝えたが、曇徴のもたらした中国式製法による紙は、麻や楮(こうぞ)等の繊維を腐敗させてすくった質の悪い紙で、色つやも悪く保存に耐えられず、量産もきかなかったので、太子が「繊維を腐らせるから弱くなる、腐らせず、灰汁(あく)で煮よ」と云って、日本初の和紙が出来、後に、上に糊を付ける技法が考えられて鳥の子紙が生れ、丈夫で美しい和紙が太子によって完成しました。なお、10月8日新羅と任那の使者が35年ぶりに来て、秦河勝が接待役で、大臣(おおおみ)蘇我馬子が歓待しました。

 611年(推古19年)2月超大国隋が、113万の大軍を召集し、翌年1月高句麗へ進撃を開始したが、騎馬民族高句麗軍4万の内、精鋭1万5千を追うのに、大軍では機動性が悪く、隋も精鋭30万5千で高句麗の遼東城を攻め、落城寸前まで迫ったけど、兵站(へいたん)が尽き、内部破壊で30万5千が2700になり、翌々年まで3度も攻撃して終に撤退し、この頃、太子は仏教の布教に力を注ぎ、仏、法、僧の三宝の興隆を図り、我が国で初の経典注釈書「三経義疏{さんきょうぎしょ、勝鬘経(しょうまんきょう)義疏、維摩経(ゆいまきょう)義疏、法華経義疏の総称}」を5年間で著しました。また、611年(推古19年)5月太子は、菟田野へ薬草狩りに出かけましたが、かなり熱心で、宮中の年中行事にも組まれ、また、同年太子は、畝傍池、和珥池を掘り、難波と飛鳥を結ぶ官道を造りました。

 612年(推古20年)2月推古天皇は、母堅塩媛(きたしひめ、)を父欽明天皇陵に合葬すると、蘇我馬子も一族を引連れて参列し、また、同年百済から渡来した味摩之(みまし)が中国の呉で「伎楽の舞」を習得したと云うので、太子が彼を奈良県桜井市に住まわせ、土舞台に少年を集め、「呉伎楽舞(くれうたノまい)」を少年達に伝習させたが、これが我が国初の国立演劇研究所で、今でも「芸能発祥」を記念して、毎年10月第三土曜日18:00〜、「桜井篝能」が催されます。

 また、同年12月1日太子39歳が奈良県生駒郡王寺町王寺の片岡の里を巡遊された時、道端にぼろ衣をまとった異形の眼つき鋭い僧らしき男が飢えて横臥(おうが)し、風采はみすぼらしいが、その体からえも云われぬ香が漂い、どことなく気品があるので、ただ人とも思えず、名を尋ねたが、男が答えないので、太子は歌を詠まれ、

  しなてるや 片岡山に飯に飢えて ふせる旅人あはれ 親なしに なれりけめや

  さす竹の きみはやなき 飯に飢えて こやせる旅人 あはれ

なお、同様の歌が、万葉集巻3−415にも太子の歌として、次ぎの一首が載っており、

 家にあらば妹が手纏(てま)かむ草枕 旅に臥(こ)やせるこの旅人あはれ

すると、飢え臥していた男が反歌を献じました。(これらの歌碑は、上宮遺跡にあります。)

 斑鳩や富の緒川(おがわ)の絶えばこそ わが大君の御名(みな)を忘れめ

 そこで、太子は飢え人の着ていた衣を脱がせ、自分の衣裳と取り替えて宮へ帰館すると、飢え人は翌日亡くなり、手厚く葬ると、棺の中に遺体がなく、ただ太子の衣裳だけが残っていました。この話を聞いた里人は、亡くなったのは達磨大師の化身に違いないと云い、棺を埋葬して塚を築き、その上に寺を建立し、これが国道168号線のバス停「張井」の東側にある臨済宗南禅寺派・片岡山「達磨寺」で、太子自ら刻まれた我が国最古の重文「達磨大師像」を本尊として安置し、本堂の下には、今も「達磨塚」があり、古墳時代末期の横穴式石室と云われています。

 613年(推古21年)難波より京へ至る大道(竹内街道)が造られた頃、太子が稗田の里で昼食に稗の飯を出され、訳を聴くと、村は水利が悪く稲が実らず、稗が常食と知り、太子が「それは可哀相だ」と、早速黒駒に乗って、稗田の東、奈良市池田町(駒繋ぎの松あり)まで走り、秦河勝に命じて、を掘り、菩提山(ぼだいせん)川の水を引き、大和郡山市稗田町、上・下三橋町へ灌漑用水を送りました。

 614年(推古22年)第4次の遣隋使として、犬上君御田鍬(みたすき)と矢田部造らが派遣されましたが、小野妹子の名は見えず、対隋外交はこれでひとまず終幕となり、犬上御田鍬らは翌年帰国しました。

 616年(推古24年)太子43歳の時、法隆寺から大阪の天王寺(四天王寺)へ向い、途中笛を吹きながら関屋峠を越していると、背後に山神が現れ、笛に合わせて舞い始めたので、怪しんだ太子が振り返ると、山神は恐れて舌をぺロリと出し、消えうせたが、この山神の正体は、毎年3月22日〜24日法隆寺の聖霊会(しょうりょうえ、お会式)で行われる舞楽の主役・蘇莫者(そまくさ)です。

 618年(推古26年)隋が30万の大軍で、3万の高句麗を攻めたが、撃退されて滅び、8月1日高句麗の嬰陽(えいよう)王が、隋の捕虜(将校の貞公、普通)二人と共に戦利品の弩(ど、強弓)と駱駝(らくだ)を送って来ました。そして、中国で唐朝が立った頃、太子は磯長の里に墓所を造り、更に調使麻呂を連れて黒駒と共に雲の中まで上がって行き、3日3夜で国中を巡行しましたが、「聖徳太子伝暦」や「上宮聖徳太子伝補闕記」によると、太子が富士山に登った事が書かれ、愛知県宝飯郡赤坂(現在の音羽町)の「正法寺」にある「八房梅」は、太子お手植えで、1つの花に8つの実を結び、妊婦が食すると安産、病人が食せば快復し、寺に太子孝養像が祀られているので、太子の全国巡行が伺われ、

 なお、この頃、太子が近江国(滋賀県)を巡回中、JR東海道線「能登川駅」の南方約3キロにある繖山(きぬがさやま、標高432m)から北へ伸びる尾根の麓で馬を止め、木につないで山上へ登り、下山して見ると、馬が石と化して池に沈んでいました。そこで太子が建立したのが、今の臨済宗妙心派の禅寺「石馬寺(いしばじ)」で、同寺には大英博物館で展示して好評を博した役行者像が安置され、老人像としては、東大寺の国宝「重源上人坐像」と並んで鎌倉彫刻の双璧です。

 620年(推古28年)太子47歳は、嶋大臣(蘇我馬子)と議(はか)り、「天皇記(すめらみことノふみ)」および「国記」、そして、臣(おみ)・連(むなじ)・伴造(ともノみやっこ)・国造(くにノみやっこ)・百八十部(ももあまりやそともノお)並びに公民等の「本記」を編纂したと、ちょうど100年後に書かれた「日本書紀」に載っています。

 621年(推古29年)12月太子の母・穴穂部間人皇后が亡くなると、明けて正月22日から太子が病気になり、その看病に努めた妃・膳大郎女(かしわでノいらつめ)も病に倒れ、2月21日亡くなり、亡くなる直前に「斑鳩の富のの水が飲みたい」と云ったのに、太子が飲ませなかったので、後で嘆かれたが、翌日太子も急変し、

 622年(推古30年)2月22日深夜太子が49歳で亡くなって、大阪府南河内郡太子町の真言宗系単立寺院科長山(しながさん)叡福寺(えいふくじ)の境内にある磯長陵(しながりょう)に葬られ、御陵は生母・間人太后の棺を上手に据え、右に太子、左に美しく彫刻された膳部妃の棺を合葬する三骨一廟で、結界石は空海が寄進し、江戸時代末には石室の中に入って、乾漆の棺を拝めたが、叡福寺は、推古天皇が霊墓の守護の為に建て、御廟寺、磯長寺、石川寺、「上の太子」とも呼ばれ、太子16歳の植髪像を祀り、境内に生前太子が食事をされた後の箸を地に突き刺したら、「逆さ杉」として根付き、今も下向きに枝を張って繁っています。

 なお、太子の崩御に際し、愛馬黒駒は草や水を口にせず、太子の鞍を乗せて葬列に加わり、柩(ひつぎ)の側に寄り添い、河内の磯長陵まで付いて行き、柩が墓に葬(ほうむ)られると、目から赤い涙を流し、悲鳴と共に倒れて、息が絶え、中宮寺の南に埋められ、国道25号線のバス停「法起寺(池後寺、聖徳太子建立七大寺の1つ)口」の南西、道路の南側、出光のガソリンスタンドの東隣にある史跡「「駒塚(こまづか)古墳」が「黒駒」の墓で、長さ49mの前方後円墳です。また、「駒塚古墳」の南東、田圃の中に直径約14mの「調子丸塚古墳」もあり、太子の舎人(とねり、従者)で、いつも太子に仕えていた調子丸の墓です。

 また、太子には生前4人の妻がいて、最初の后・刀自古郎女(とじこノいらつめ、蘇我馬子の娘)との間に山背大兄王を始め男王3人、女王1人、膳大郎女との間に男王5人、女王3人、菟道貝鮹皇女(うじノかいたこノひめみこ、推古帝の娘、太子の従妹)は正妃だけどお子がなく、橘大郎女(たちばなノおおいらつめ、推古帝の孫、尾治王の娘)との間に男王1人、女王1人、計14人の子がいましたが、妃・橘大郎女は、太子が没後天寿国に生れ変った様を図像にし、椋部(くらひとべ)の秦久麻(はたノくま)を令者(つかさ、監督)にして、采女達に織らせたのが中宮寺に残る我が国最古の刺繍「天寿国繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)」で、それには太子の言葉「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」、この世は仮で虚しく、ただ仏だけが真(まこと)であると書かれています。

 更に、太子の死を悼み、日本書紀に「天下(あめのした)の百姓(おおみたから)、ことごとくに長老(おきな)は愛(めぐ)き児(こ)を失えるが如くして、塩酢之味(しおすのあじわい)、口にあれどもなめず。少幼(わかき)は慈(うつくしび)の父母(かぞいろは)を亡(うしな)えるが如くして、哭(な)き涙(いさ)つる声、行路(みち)に満たり。・・・」とあり、更に太子の永年の師であった高僧、慧慈が高句麗に帰国していたが、太子の訃報(ふほう)に接し、「日本国に聖人あり、天から素晴らしい資質を授かった方で、奥深い聖なる徳をもって生まれ、人民の苦を救い、真の大聖であった」と云い、自らも太子の命日に死ぬだろうと告げ、翌年2月22日に亡くなりました。

 623年(推古31年)3月止利仏師が聖徳太子の為に太子等身大の「釈迦三尊像」を造り、像に太子追悼の銘文が記され、現在「法隆寺金堂」中央に安置されていますが、また、金堂内陣の東側には、推古15年に父用明天皇の遺命によって造られた「薬師如来坐像」が、後に法隆寺の火災(643年)で焼失し、元の仏像を忠実に再現して、白鳳時代に造られ、「釈迦三尊像」と共に安置されています。なお、623年の秋、万余の日本朝廷軍が海を渡って新羅を攻めたが、新羅王が慴伏したので撤退しました。

 624年(推古32年)10月蘇我馬子が「朝廷大和直轄地の六県の1つ、葛城の県(あがた)を賜りたい」と、使いをやって奏上させたが、推古天皇は「吾は蘇我より出たり、大臣もまた、吾が伯父なり」と云って、身内の理不尽な要求をはねつけました。

 626年(推古34年)5月20日雀の様な小男の蘇我馬子76歳が身罷り、桃原墓(石舞台古墳)に埋葬されたが、日本書紀によると、彼の人となりは武略があり、また弁才で、仏法を慎み敬い、飛鳥川の畔に家(いえい)を建て、庭にささやかな池を掘って池の中に嶋があったので、嶋大臣(しまノおおおみ)と呼ばれ、享年76歳で、6月雪が降り、馬子の子・蝦夷(えみし)が大臣になる。

 628年(推古36年)2月27日推古天皇が病の床につき、3月6日山背大兄皇子を招いて、「貴方は未熟で精神的に若過ぎるから、もし心中に望む所があっても騒ぎ立てて言ってはなりませぬ。必ず群臣に諮って、それに従いなさい。」と諭して、3月7日天皇75歳が飛鳥小墾田宮で崩御され、この年大凶作で五穀が実らず、民の苦しみを見て、御陵を造らず、息子の竹田皇子(たけだノみこ)が眠る橿原市五条野町の大野岡(おおのノおか)「植山古墳」に合葬する様に遺詔され、9月そこに埋葬されたけど、後に太子町の科長(しなが)の「山田高塚古墳」へ改葬されました。

 629年(舒明元年)敏達天皇の孫・田村皇子が蘇我蝦夷によって、舒明天皇に即位し、皇后は姪(めい)の宝皇女(たからノひめみこ、後の皇極天皇)で、彼は飛鳥の岡本宮に住んだが、8年後に宮殿が焼け、639年(舒明11年)7月広陵町に百済宮を造営し、翌年10月新殿が完成して転居しました。

 630年(舒明2年)第1次遣唐使として、犬上御田鍬らを唐に派遣して、翌々年彼らが帰朝し、唐使高表仁が来朝して、また、学問僧霊雲、僧旻らも帰国しました。

 641年(舒明13年)舒明天皇が40歳で崩御され、翌年皇后が即位して皇極天皇になり、蘇我入鹿が国政を執り、威権を振るいました。
 643年(皇極天皇2年)11月太子の遺児・山背大兄王が蘇我入鹿の命により巨勢徳太(こせノとくだ)、土師娑婆(はじノさば)らに襲われ、一旦北西の生駒山中に逃げて、三輪文屋君が大兄王に対し、深草屯倉(京都市伏見区深草)に向い、そこから馬に乗って東国に至り、乳部(みぶ)を中心に軍を編成して戦えば、必ず勝てると勧めたのに、大兄王は「たとえ戦に勝っても、一身の故に万民を労することは出来ない」と云って、45日後また引き返し、一族と共に自害すると、天から五色の幡や蓋(きぬがさ)が垂れ下がり、入鹿が振り返って見ると、黒雲が涌き、聖徳太子が生前に営んでいた斑鳩宮が焼失し、上宮王家が滅亡しました。

 644年(皇極3年)11月蘇我蝦夷、入鹿父子が甘橿丘に厳重な防備をほどこした屋形を二棟築き、上宮門(うえノみかど)、谷宮門(はざまノみかど)と呼び、橿原市小綱(しょうこ)町の邸宅(入鹿神社)から引越したが、

 645年(皇極4年)6月12日朝から土砂降りの雨が降っていた板蓋宮で、入鹿が中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足らによって討ち取られ、首が気都和既神社の辺りまで鎌足を追って行ったが、遺骸は「飛鳥寺」のに埋められ、入鹿の父・蝦夷も翌日、生前の太子と供に編纂した「天皇記」を焼いて自害し、「国記」は船史恵尺(ふねノふびとえさか)が半焼けの状態で取り出して、中大兄皇子に渡しました。

 670年(天智9年)4月30日太子が創建されてから70年も経たないのに、法隆寺(若草伽藍)が夜半の火で一屋もあますことなく全焼し、今の建物はその後の再建ですが、それでも世界最古の木造建築にかわりがなく、都が藤原京から平城京へ遷都され、711年(和銅4年)法隆寺西院の金堂等が中門に立つ日本最古の金剛力士像と共に、焼失した若草伽藍の跡に配置を替えて、737年(天平9年)から11年かけて再建され、ほぼ完成しました。

 739年(天平11年)太子の冥福を祈って、斑鳩宮の地に東院の夢殿等が建立され、太子等身の姿を写した「救世観音(像高179.9cm)」を安置し、1140年頃から約700年間秘仏として人の目に触れなかったのを、明治初年フェノロサが開き、今では毎年4月11日〜5月18日と、10月22日〜11月22日に特別開扉されます。


 
「聖徳太子の肖像画」

太子の肖像画は、以前の1万円札にも描かれているが、これは明治時代の初め法隆寺から皇室に献上され、今も宮内庁が管理する御物(ぎょぶつ)「聖徳太子画像」から撮られ、法隆寺の所蔵になる前は、川原寺に伝えられ、日本最古の肖像画で、描かれている人物は、中央が太子、向って右が嫡子の山背大兄(やましろノおおえ)王、左が弟の殖栗王(えぐりノみこ)で、推古天皇の時に来日した百済の阿佐(あさ)太子の筆と云われています。
  「聖徳太子14歳の騎馬尊像」

信貴山「朝護孫子寺」の御神木「榧(かや、樹齢約千五百年)」の側に建っている騎馬像です。
 
 
朝護孫子寺(ちょうごそんしじ、信貴山寺)と、参道の「寅」   神妙椋樹山「大聖勝軍寺(下の太子)」

境内に太子救命の椋(むく)、馬蹄石、守屋池などの名跡があり、付近に鏑矢(かぶらや)塚、弓代塚と共に物部守屋の墓もあります。
 
 
聖徳太子の愛犬 の「雪丸塚」

一名「犬塚」で、達磨禅寺の境内にあり、太子が石工に命じて造り、猿の様な姿ですが、元旦にワンと鳴きます。
  叡福寺境内、聖徳太子磯長墓

御陵は高い石段を上がった所にあり、御廟には、生母の穴穂部間人皇后と妃の膳大郎女も合葬され、「三骨一廟」になっています。
 
大日本佛法最初「四天王寺」
  「法隆寺」大宝蔵院入口「馬屋」の調子丸と黒駒


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